貝沼さんが旅行に行く話


 貝沼さんが、親睦会の温泉旅行――所謂、社員旅行に出かけてしまった。貝沼さんは何度も、昂佑も一緒に行こう、と言ったが、昂佑は頑なに拒否した。三十路になるかならないかといった年齢の貝沼さんに、どう見ても未成年の自分が着いて行ったら、不自然極まりないはずだ。弟ですと言い訳することもできるかもしれないが、家庭環境を把握しているだろう上司にはすぐにばれてしまうだろうし、かといって正直に事の次第を話すのも都合が悪い。それなら行かないと言い出した貝沼さんに、昂佑はぎょっとした。自分の存在がいるが故に「行かない」などという選択肢をあげる貝沼さんが、そんな可能性を浮上させてしまう自分という存在が、おそろしかった。昂佑は行かないと言い張る貝沼さんを宥め、一泊くらい平気だからとどうにかこうにか送り出したのだ。
 しかし、いざひとりになってみると、なにをしたらいいのかわからない。掃除をしようにも、特にこれといった汚れは見当たらない。洗濯籠に汚れ物が溜まっているわけでもない。ソファに膝を抱えて座り込むと、テレビの電源をぱちりとつけた。画面から流れてくる笑い声に、部屋の中が明るくなる。
「貝沼さん……」
 ひとりぼっちは慣れているはずだ。物理的にも、心理的にも。それなのに、この空虚な気持ちは一体なんだろう。芸能人は楽しそうに笑っているのに、昂佑は笑えない。もし、このまま帰ってこなかったら? また、ひとりになってしまったら……?
 手が震える。呼吸が浅くなり、鼻の奥がツンとした。平行感覚が鈍り、めまいに似た感覚にぐらりと体が傾く。なんとかクッションに手をついて上体を支えると、昂佑はゆっくりと立ち上がった。そのまま台所へ行き、戸棚からいつも使っている包丁を取り出す。
「はあっ……はあ、……」
 息が切れる。苦しい。痛い。怖い。切らないと。早く。切らないと死んでしまう。
 左腕の袖を捲り、巻いてある包帯を乱暴に解く。包丁の柄を握り締め、肉の薄いところにぐっと刃を押し当てた。ゆっくりと横に引くと、肉が裂かれるあの感覚。甘い痺れに全身が酔い、陶酔状態に陥る。白い脂肪の隙間から血液の粒が、ひとつ、またひとつと転がり落ちるのを眺め、口元を緩めた。ああ、これで生きながらえた。
 荒い息を深呼吸で整えると、シンクに手をついて立ち上がる。水道で滴り落ちる血を洗い流し、キッチンペーパーで水滴を拭き取ると、床に落ちている包帯を適当に巻きつけた。どうせ、服に血がつかないようにするためのものだ。多少汚くても問題ない。
 気分が落ち着いてくると、ふと、外に出たくなった。そういえばテレビをつけっぱなしだったなと視線を送ると、人気ランチ特集をやっている。外食、いいかもしれない。昂佑は、貝沼さんと暮らすようになってから、あまり外出をしていない。それは貝沼さんが昂佑の状態を心配しているからでもあり、昂佑自身が外に出たいと思えなかったからでもある。
「思い立ったが吉日っていうし」
 昂佑はそう呟くと、捲れた袖を直し、テレビを消すと、久しぶりに玄関のドアを開けた。


 休日ということもあって、外は大勢の人で賑わっていた。切符を購入し、電車に乗る。久しぶりの電車に、吊り革に掴まる昂佑の掌はじんわりと汗ばんだ。一駅、二駅過ぎ、乗客が入れ替わる。昂佑の横を人が通り過ぎるたびに、汗で手がぬるりと滑った。逆の手に持ち替えようと上げていた右手を下げようとしたとき、下がった袖が視界に入る。反射的に、左腕を見下ろした。傷だらけの、汚い腕。もし左手で吊り革に掴まったとして、袖が下がってきてしまったら血が滲んだ包帯が人目にさらされてしまうことになる。醜い腕が。同じ車両に乗っている人々はみんなきれいな腕をしているというのに。自分だけは醜い腕。貝沼さんが望まない、汚い昂佑。
「お前は俺のところにいればいいんだよ、昂佑。俺のところ以外に、お前に居場所なんてない」
 浮かび上がる、冷たい視線。再び相まみえた彼は、そう言って昂佑の腕を強く握り締めた。大好きだった、優しかった頃の面影は、どこにもなくて。昂佑は為す術もなく、大きな手に押さえつけられ――
「お降りの際は足元にお気をつけて――」
 人が出入りする喧騒で、はっと我に返る。途端、咽喉の奥からすっぱいものが込み上げてきた。人の波を掻き分け、速足でホームを抜ける。
 自分は、今、なにを思い出した?
 考えるな。考えてはいけない。忘れろ。今すぐ。
 トイレに駆け込むと、個室に飛び込み便器に向かって嘔吐した。胃の中にはほぼなにもなく、胃液ばかりが流れ出る。それでも嘔吐感はとまらなくて、昂佑は涙を流しながら嘔吐いた。
「ぐ、ぇ……おえっ……」
 苦しい。咽喉が、腹が、口が、心が。誰かに抱き締めて、大丈夫だよと言ってもらいたい。けれど、昂佑の隣には誰もいない。こんな昂佑を、貝沼さんは愛してくれない。愛される価値もない。
 昂佑はレバーをまわして吐瀉物を流すと、手の甲で滲んだ涙を乱暴に吹いた。自分が格好悪くて、馬鹿みたいだった。
「……ごめんなさい」


「ただいま」
 玄関のドアが開き、一日ぶりの貝沼さんの声。急いで玄関まで出向くと、ちょうど靴を脱いでいるところだった。
「おかえりなさい」
 そう言うと、貝沼さんは昂佑の髪をくしゃっと撫でた。
「変わったことはなかった? 大丈夫?」
「なにもないよ。俺だって、もう十八だよ? そんなに心配することないって」
「そう……」
 安心した顔の貝沼さん。昂佑も嬉しくなった。
「旅行の話、たくさん聞かせてね」
 そう言いながら、床に置かれた荷物をリビングに運ぶ。鞄からほのかに貝沼さんの匂いがして、なんだかほっとする。続いて部屋に入ってきた貝沼さんは「もちろん」と言ってまた昂佑の頭を撫でた。
「今度は、ふたりで行こうな。旅行」
 頭を撫でる大きな手から、昂佑を攻撃する意思は微塵も感じられない。あたたかくて、優しい手。愛おしさがその指先から、視線から、声色から、伝わってくる。勘違いしてしまいそうになるほどに。
「貝沼さん、だいすき」
 頭に乗せられた手にそっと右手を乗せる。貝沼さんは目を見開いて驚いた表情をしたが、すぐにまたとろけるような笑顔を浮かべると「俺も昂佑のこと、だいすきだよ」と返してきた。ああ、なんてしあわせ。
 昂佑は笑いながら、トレーナーのポケットの中で、そっと剃刀の刃を指先に滑らせた。

2014.02.18