昂佑が嘔吐する話


「うぇっ……」
 咽喉の奥からせりあがってくる嘔吐感に鼻がつんとする。目尻には涙が滲み、体中が震えた。便座に両手をついて屈み込んだ俺は、胃の中のものを白く電球の光を反射する陶器の上にぶちまけた。途端に口の中に広がる酸っぱい味。不味くて顔を顰めるも、また襲い掛かる吐き気に俺はひたすら嘔吐いた。
 とうとうなにも出すものがなくなり、ほっと息を吐いた俺は次の瞬間愕然とした。便器の中に広がる嘔吐物。どろどろに溶けあいながらもかろうじてまだ原型がうかがえるそれは、貝沼さんが作ってくれた晩ご飯の変わり果てた姿。ふわふわと湯気を立てるあたたかいハンバーグは、チーズが織り込まれた貝沼さん特製の味。おいしいと言うと、貝沼さんは嬉しそうに笑った。そして、食べられそうだったらおかわりあるからね、と穏やかに言う。そんな優しさが嬉しかった。まだうまく料理ができない俺のために、貝沼さんは忙しい合間を縫って俺の食事の支度をしてくれている。そんな優しさを甘んじて受けている自分が憎かった。悔しかった。
 ぼろぼろと両目から涙が溢れ出す。それは見る影もなくなったハンバーグの上に吸い込まれるように落ちて消えていった。ごめんなさい。それだけで頭の中がいっぱいになった。貝沼さんごめんなさい、せっかく作ってくれたおいしいハンバーグをこんな姿にしてしまってごめんなさい。
 のろのろと起き上がりレバーを引くと、吐瀉物はくるくると流れて下水に消えていった。綺麗に洗い流されて陶器の真っ白な輝きは戻ってきたけれど、貝沼さんの好意を無駄にしてしまったという罪悪感だけは、狭い空間の中にはっきりと存在していた。

「昂佑、最近ご飯食べる量減っただろ」
「……えっ」
「気付かないわけないだろ。なにかあったのか? 俺の料理、もしかして不味いか?」
「そ、そんなわけない!」
 申し訳なさそうに眉を下げる貝沼さんに、そう叫ぶ。貝沼さんはなにも悪くない。悪いのは全て、昂佑なのに。
 俺は嘔吐を繰り返していた。食事を摂ると必ず訪れる吐き気。一度耐えようと努力してみたが、リビングでぶちまけそうになってしまい慌ててトイレに駆け込んだ。それ以来吐き気がきたらすぐにトイレに行くようにしている。
 貝沼さんの料理はおいしい。それなのにどうして吐いてしまうのか、俺自身さっぱりわからなかった。食べるたびに訪れる吐き気、そして吐いた後に訪れる罪悪感。俺はなるべく食べる量を減らすことでそれから逃れようとしていた。
「えっと、ちょっとダイエットでもしてみようかと……」
「女子かよ」
「ち、違うよ!」
 むっとして返すと、貝沼さんはふ、と笑って俺の腕を取った。
「昂佑は細いんだから、もっと食べて太らないと駄目だよ。ちゃんと三食食べて、たくさん寝て、健康にならないと」
「貝沼さん……」
「だから、なにかあったら言うんだぞ」
「うん、わかったよ」
 心が、痛かった。

 レバーを引きながら便器に頭を突っ込んで嘔吐する。吐き出したものは留まることなく、すぐさま水流に流されて消えていった。目を瞑り、水が流れる音にだけ集中する。ずるいと思いながらも、そうすることで罪悪感が薄れるような気がした。
 自分はなにをしているんだろう。働かない頭で考える。どうして吐いてしまうんだろう。どうして大切な人の作ってくれたものを粗末にしてしまうんだろう。どうして食べなければいけないんだろう。どうして。どうして……
 どうして、生きているんだろう。
 いっそのこと、罪の証である吐瀉物に塗れて溺れて死んでしまいたい。真っ白な便座に両腕を預けて、俺は涙で揺らぐ視界を閉じた。

2013.11.14