昂佑がリストカットする話


 薄い皮膚を裂いて冷たい刃が体内に侵入してくる感覚に、ぞわりと背筋に痺れが走る。ほう、と甘い息を吐く。痛みと快感が全身を支配し、まるで絶頂を迎えたときのように甘美な怠さに体中の力が抜けた。浅く開いた傷口からじわりじわりと浮き上がってくる血液の玉は、傷の端に溜まり、そして腕を伝い床に落ちた。その一部始終を黙って眺め、唇の端を持ち上げて笑う。
 リストカットをすると、ランナーズ・ハイと同じような状態になるらしい。オピオイドという、所謂エンドルフィンなどの脳内麻薬がモルヒネの何倍も分泌され、感情や痛覚が麻痺し、ぼんやりとした優しい世界に意識が運ばれてゆく。この感覚を知ってしまってから、昂佑はこの行為をやめられなくなってしまった。痛みも苦しみも悲しみも、たとえ一瞬でも忘れられるなら、ほんの少しの傷なんて代償にもなりはしない。
 しばらく床にぺたんと座り込んでいたが、そろそろ家主が帰ってくる時間だと気付き立ち上がる。料理は全て家主の貝沼がしてくれている。最近少しずつ昂佑も練習しているが、食卓に昂佑の料理が並ぶ日はまだまだ遠そうだ。だから昂佑は、貝沼が作りおいてくれた料理を温めるだけだ。冷蔵庫に入れられた麻婆豆腐をレンジで温め、味噌汁の入った鍋を火にかけていると、ガチャリという音がして、玄関のドアが開いた。
「ただいま」
「貝沼さん、おかえりなさい!」
 毎日やっているこのやりとりは、まるで新婚夫婦のようだと昂佑は思う。恥ずかしいから貝沼には絶対に言えない。
「もうすぐご飯温まるから、手を洗ってきて」
 背広をハンガーにかけながらそう言うと、貝沼は優しげな視線を落としてきた。
「どうしたの?」
「どうもしないよ、幸せだなと思って。昂佑は幸せ?」
「……わからない。多分、幸せ」
 少し前までは、ヒステリーやパニックを起こしては彼を困らせていたけれど、最近は穏やかな生活を遅れている。昂佑は右手でそっと袖に隠れた左手首を握った。

 夕食を終え、風呂に入った。今日は昂佑が先だったので、今は貝沼が入っている。昂佑はベッドの上にごろりと横になる。昂佑のぶんのベッドを買うのは部屋の広さの問題で無理で、だからふたりは一緒のベッドで寝起きしていた。ごろりと寝返りを打つと、貝沼の匂いが鼻腔を刺激する。
「貝沼さん……」
 左手首は疼く。まともに消毒も止血もしていないので、傷の治りは遅く、治りかけの傷がびっしりと手首を覆っている。服に血がつかないように巻いた包帯は歪で、自分の不器用さ加減に昂佑は苦笑いを浮かべた。
「昂佑?」
 寝室の扉が開き、貝沼が入ってくる。不自然でないようにそっと袖を戻した昂佑は、にっこりと笑顔を浮かべ、貝沼さんなあに、と返事をした。貝沼はベッドに腰掛けると、寝転がったままの昂佑の顔を覗き込んだ。
「最近、昂佑明るくなったよな。もともと明るかったけど、今はあんまり無理してないっていうか……なにかいいことでもあった?」
「いいこと? そうだなあ、少しだけ料理が上達した、かも?」
 本当は、毎日手首を切っているから、だから感情をコントロールできているのだ。だけれどそれは、彼には言えない。言ってはいけないと昂佑はわかっている。もし貝沼がこのことを知ってしまったら、泣きながら自分の無力さを嘆くだろう。守ってやれなかった、幸せにしてやれなかった、と。それは昂佑の望むことではない。
「昂佑の手料理、早く食べてみたいなあ」
「もう少し待ってて。頑張って練習して、貝沼さんの何倍もおいしい料理作ってみせるから」
「うわ、宣戦布告?」
 顔を見合わせて笑い合う。ああ、平和だ。これが、幸せというものなのだろうか。
「じゃあ、電気消すよ」
「うん」
 ぱちん、と音がして、明かりが落とされる。暗くなった部屋で、互いの息遣いだけが浮いていた。少し前までは、この暗闇も不安を煽る材料だった。だが、今は大丈夫だ。
「おやすみなさい、貝沼さん」
「おやすみ」
 俺には、この傷がある。

2013.8.4